第二次世界大戦前に海外渡航した日本人についてのリサーチ②:門司港

2017年6月後半に11日間、九州で調査旅行をした。羽田空港から北九州空港への飛行機に乗り、門司港・下関→博多→島原→天草→長崎と周り、長崎空港から帰路についた。

森崎和江の『からゆきさん』(1976年)によると、口之津が石炭の積出港であったのは明治30年代末ごろまでで、そののちは三池港へと移ったことでからゆきさんが門司や長崎から多く送り出されたらしい。その後、門司港は大正から昭和初期にかけ外国航路の拠点となり、モダンで国際色豊かな街として発展した。門司港駅の周りは貿易などでかつて栄えたのであろうと思わせる西洋風の建物が現在もたくさん残っており、そのためか門司港レトロとして異国情緒溢れる観光スポットとなっている。お土産物屋のおばさんは台湾や韓国からの観光客が多いと言っていた。

私は旅を通して「からゆきさん」たちの面影を探している。あまりにもたくさんの日本人少女たちが旅立って行った。過去に起こった悲しい出来事として語られがちだが、そういった側面を持ちつつも、それぞれのエピソードは多種多様であり、これと決めつけることはできない。しかし彼女たちに共通していることと言えば、決して安全とは言えない長い船旅を全員が経験したことだ。私はスラバヤや横浜でもそうしたように、門司港と下関周辺で港や海の映像を撮影した。また、徒歩15分ほどで渡ることができる、門司(福岡県)と下関(山口県)をつなぐ人道用の関門トンネルを訪れた。一番深いところで海面58メートル。船旅を終えることが出来ず、海に沈んでいった少女たちのことを歩きながら思う。しかし今では地元の人と観光客が通行し、運動のために何度もトンネル内を往復して歩く人たちもいる。

門司〜下関間はフェリーで移動することもできる。

もうその名を知ることさえできない少女たちとは対照的に、門司港に名を残す女性が二人いる。小説家の林芙美子(1903〜1951年)と実業家の広岡浅子(1849〜1919年)だ。林芙美子は生まれが下関説と門司説があるらしく、門司駅から徒歩2分の旧門司三井倶楽部の建物2階に林芙美子資料館が併設されていた。時間が無くて資料館には行けなかったのだが、林芙美子についてのパネルを少し読むと、第二次世界大戦中に陸軍報道部報道班員としてジャワに滞在と書いてある。「従軍看護婦」と「従軍慰安婦」の存在はあるものの、女性は基本的に日本に留まっているものと思っていたので、果たして「従軍記者」としてジャワに行ったのだろうか、それとも視察程度に訪れただけなのだろうか、気になるところである。広岡浅子は実業家として、また女子大学設立に尽力したことで知られている。広岡が炭鉱ビジネスを始めた当時、海外輸出のための石炭は長崎港まで輸送する必要があったが、門司に税関設置を申請し、門司港を石炭積み出し港へと発展させることに尽力したという。そして晩年には廃娼運動などを行っていた矯風会にも参加している。彼女たちは名も無い少女たちについてどう思っていたのだろうか。