さいたま国際芸術祭の市民プロジェクトとして 「Women's Lives 女たちは生きている」 に本間メイが作品展示参加しました。 キュレーターは小勝禮子氏(美術史・美術批評家)
水戸芸術館現代美術ギャラリー ケアリング/マザーフッド:「母」から「他者」のケアから考える現代美術。 本間メイが展示に参加して来ました。 自分以外に関心を向け、気を配り、世話をし、維持し、あるいは修復するといったケアに関わる活動は、人間社会の根源的な実践であるという視点から、現代美術作家15名の作品を展示しました。
渋谷区庁舎15階スペースで12月14日〜16日に入選作品展が開催されました。 渋谷芸術祭から始まった第7回目の新しいイベントだそうです。年齢不問で広く応募を募い40点が選ばれました。 私の作品は、杉板にアクリルで描いたもので中世の祭壇画のように観音開きになっています。渋谷は縄文時代から人々が住み集ってきたところ。遠くには大山や富士山を望み、湧き水と川が流れ、丘陵には緑が美しい場所であったと想像します。この作品はそのような自然を有機的な形として表現しています。 作品はNFTブロックチェーンに繋げて展開していくそうで、今後の動向に注目しています。
日本橋馬喰町MIDORI.soで展示しました。
リサーチを通して制作するアート。「Bodies in Overlooked Pain-見過ごされた痛みにある体」出産や胎盤に関するエピソードを集めた映像や写真、インドネシア山間部でお茶栽培に従事する人々の映像など。多国間における関係性を考察する作品。 2021.12.3~12MIDORI.so馬喰横山 主催 アートマネージャーラボ
インドネシアの中部ジャワに位置する町、ブローラを訪れた。ブローラは作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールが生まれた場所であり、プラムディヤが弟のクサラ・スバギオ・トゥール(Koesalah Soebagyo Toer)、スシロ・トゥール(Soesilo Toer)と共に自宅を図書館として開放したパタバ図書館(プラムディヤ・アナンタ・トゥール すべての民族の子)〔Perpustakaan Pataba (Pramoedya Ananta Toer Anak Semua Bangsa) 〕がある。プラムディヤとクサラは亡くなっているので今はスシロ氏とその家族が住み、管理している。
インドネシア、マルク諸島に位置するブル島に行ってきた。ブル島はかつての流刑地であり、かのプラムディヤもスハルト政権下の60〜70年代にブル島に流刑されていた。私はブル島にすごく惹かれていて、資料などは無いかもしれないがプラムディヤが創作を行なった土地に、絶対に行ってみたいと思っていた。マルク諸島は文化圏がジャワ島とはかなり違うようで、私が主に滞在していたジャカルタやバンドンからはなかなか遠い。
私はその船底に積まれているセメントの袋を見て、からゆきさんたちが船底に押し込まれて命も絶え絶えに密航したことを思い出し、セメント袋を撮り、他にも船の風景を色々と撮影した。ガイド料は少し多めに払って、それでも二人で乗船して500円くらいだったので、おじさんは1日に何組くらいガイドするんだろう…と思いながら別れを告げた。
2017年9月24日〜10月15日に開催された亀山トリエンナーレ(三重県)にて映像インスタレーション展示をしました 。
『マイコの国に関する私のノート -Catatanku tentang negeri Maiko-』 『トコ・ジュパンを探して』 映像・8ミリフィルム映像(デジタルデータ)・アーカイブ資料 助成 公益財団法人テルモ生命科学芸術財団
長崎にはかつて女人禁制の出島に出入りを許されていた遊女たちがおり、彼女たちは丸山遊郭から通っていた。また、悟真寺の裏に稲佐遊郭という別の遊郭も存在した。この稲佐遊郭は元々、稲佐郷にあり露西亜マタロス休息所と呼ばれていた。露西亜マタロス休息所はその名の通りロシア人が通うための遊郭である。1860年に英仏の艦隊に敗れ、長い航海をしてきたロシア軍艦ポスサヂニクが長崎港に入港し、マタロス(水夫)たちはしばらく長崎に滞在することになった。彼らは当初、丸山遊郭に登楼する予定であったが、梅毒を恐れ、ロシア人軍医による検梅を要求した。日本にはまだ検梅の習慣がなく、遊郭としてもそれなりに権威を持っていた丸山遊郭はこれを拒否し、稲佐郷にその代わりとなるものを作るべく長崎や近隣の村からまずしい娘を集め、検梅も受けさせた。稲佐遊郭となってからはロシア人以外の客もいたようだ。
私はこの旅行で初めて、女性の研究家、大久保美喜子さんと天草で話すことができた。性別によってどう変わるというわけでもないかもしれないが、彼女の研究だけでなく、その活動は尊敬すべきものがあったし、とても親近感を持つことができた。大久保さんは独自でからゆきさんについて調べながら、東南アジアからアフリカまで、からゆきさんに関する土地・日本人墓地を訪れ、文章を書き、絵本を作り、天草で別の仕事もしている。そしてインドの売春宿がある地域に現地のNGOと協力して、女性たちが産んだ子どもが通えるように幼稚園を2つ作り、毎年訪れているという。何が彼女をそこまで突き動かすのだろうか。大久保さんの本を読み、話してわかったことは、「からゆきさん=売春婦」という歴史が語られていく上で作られたレッテルや偏見への抵抗のようだ。そしてそのレッテルを地元民はタブー化することでしか自分たちを守ることができなかった。その背景を知らないまま、「からゆきさん」を悲しい過去の出来事として扱うだけでは私たちは本質を見出せないだろう。
天草の女性史研究家の方とお話するために、天草に一泊することにした。長崎県から熊本県に渡るため、口之津港からフェリーに乗って、鬼池港まで30分ほど。車も積載でき、船内も広くて綺麗な大きな船だ。私みたいにバスを乗り継いで移動する人はあまりおらず、車で港まで来てフェリーに車を載せ、また降りたら車で移動していた。普段、東京で電車と徒歩、自転車の生活をしている私には船で移動というだけでわくわくしてしまう。窓からだんだんと山々がそびえ立つ島が見えてきて、ここから少女たちが旅立って行ったのだと思う。
口之津歴史民俗資料館で知った、からゆきさんたちの寄附により建立したという天女塔(弁天山理性院大師堂にある)を見に行くため、また地元の郷土史料家の方にもお話を伺えるということで、バスで片道二時間くらいかけて口之津から島原市中心市街地まで出かけた。島原駅から徒歩10分くらいのところに島原城があって、整然と区画された道や住居はいかにも城下町といった感じである。史料家の方は武家屋敷の名残を感じさせる立派な邸宅で親切に出迎えてくれ、奥様の手作りデザートを食べながら、貧困のために海外出稼ぎに行ったからゆきさんたちが日本の外貨獲得に貢献したこと、またその事象が起こるまでの島原の歴史について丁寧にお話してくださった。
からゆきさんについて調べていて、島原市の口之津という町にずっと行きたいと思っていた。1567年に日本で初めての南蛮船が口之津に来航し、南蛮貿易港として栄え、第二次世界大戦後も船員を多く出した。そして第二次世界大戦前にはたくさんの少女が口之津港近くの風呂屋などに囲われ、ボートに乗ってそこから石炭船に乗り込んだ。口之津町自体は貿易港として栄えていたので割と裕福であったようだが、それ以外の島原地域や天草からやってきた出稼ぎ者が多く渡航したらしい。博多から長崎県の諫早まで特急に乗り、そのあとバスに2時間以上揺られて口之津に到着した。バスの中からはどこにでもあるような町の景色、南国風の木、温泉街、町と海が隣り合わせになった風景などを見ていた。
博多では主に明治時代の新聞やアーカイブ資料を見るのが目的であった。福岡県立図書館に数日通って「門司新報」を読んだり、九州大学附属の医学図書館で『日本皮膚病黴毒圖譜』を見せてもらった。日数が限られていたので「門司新報」はあまり読み進められなかったが、主に1896年と1906・1907年あたりの記事を読んでいた。1900年より前のものとなると、旧字体の漢字に加え、文章もさすがに読みにくい。1896年の正月三が日は新年の挨拶として多くの商店などが広告を出しており、いくつかの券番も広告を出していたのだが、そこに娼妓や藝妓の名前も連なっていた。当時、券番は身近なものであったのだろうと思う。しかし1907年の正月三が日には娼妓や藝妓の名前が掲載されている広告は見当たらなかった。海外出稼ぎ関係は、布哇(ハワイ)への日本人移民に関する記事がいくつかあった。また、1906年12月8日の「門司新報」には、ジャワ島への輸出に関する記事を見つけた。南清地方から南洋諸島一帯において日本雑貨の需要が増加しているが、不正商売のため信用が失墜したのでバタビヤには商業会議所のようなものが設立され品評を行っている。例えば洋傘は安価なので売れ行きが良く、バタビヤの某外商から100ダースの注文を受けたが、本邦某洋傘店は1ダースに各1本不良品を混ぜたために同地方の信用を失墜した。売薬も有望な輸出品だが洋傘と同じく、一包み7日分と称して実際には5日分しか入っていないものを輸出し、信用を失墜したことは惜しいことだ、といったような内容である。
2017年6月後半に11日間、九州で調査旅行をした。羽田空港から北九州空港への飛行機に乗り、門司港・下関→博多→島原→天草→長崎と周り、長崎空港から帰路についた。 森崎和江の『からゆきさん』(1976年)によると、口之津が石炭の積出港であったのは明治30年代末ごろまでで、そののちは三池港へと移ったことでからゆきさんが門司や長崎から多く送り出されたらしい。その後、門司港は大正から昭和初期にかけ外国航路の拠点となり、モダンで国際色豊かな街として発展した。門司港駅の周りは貿易などでかつて栄えたのであろうと思わせる西洋風の建物が現在もたくさん残っており、そのためか門司港レトロとして異国情緒溢れる観光スポットとなっている。お土産物屋のおばさんは台湾や韓国からの観光客が多いと言っていた。
私はいわゆる「からゆきさん」とよばれる、明治から大正にかけて出稼ぎや移住を目的に海外渡航した日本人移民-時として売春を行わなければならなかった女性も多数含む-について調べ、また彼らがいかにインドネシアにおける第二次世界大戦前の日本人コミュニティ形成を導いたのかを映像作品にすることで、近代を通して現代まで影響しうる日本におけるジェンダー観や、日本人女性の国内外でのイメージについて考察するきっかけを模索している。これまで森崎和江や山崎朋子など、日本人作家のルポルタージュと明治期の新聞(日本やインドネシアで発行されていたもの)などを中心としたリサーチに加え、自身で映像撮影を行うほか、映像に用いるためのアーカイブ資料を過去の新聞や様々な機関のオンラインアーカイブから見つけてきた。
Back and Forth Collectiveという、私が関わっているコレクティブで短期間のライブラリー兼展覧会イベントを開催することになったのでお知らせします。期間中はアーティストや研究者が選んだ、ジェンダーや女性に関する本を手にとって読むことができ、またドローイングなどの小作品も展示します。 「ポップアップライブラリー -Invisible Mothers-」
今月23日まで開催のあいちトリエンナーレ2016を先週末見に行ってきた。
写真家や映像人類学者である港千尋氏が芸術監督を務めた今回のトリエンナーレ「虹のキャラヴァンサライ 創造する人間の旅」は、創造しながら旅(キャラヴァン)を続ける人間がテーマとなっており、また人間以外の動物や生物との関わりも重要な要素になっている。個人的には視覚的に楽しめる作品だけではなく、ポリティカルなテーマを持った映像作品などが多く見られたので充実した時間を過ごせたのだが、北海道や沖縄、または他国の地域を紹介する際に起こり得る“自分たちとは別の民族”といったような視点を未だ持っているような気がしてしまった。しかしそういったバイアスを忘れさせるパワフルな作品もあったので、ここで2つ紹介したい。おそらく意識的にこの2作品は旧明治屋ビル会場内に隣同士で展示されていた。
先日、横浜美術館にて開催されている展覧会『BODY / PLAY / POLITICS』の関連イベントであるシンポジウム「波紋-日本、マレーシア、インドネシア美術の20世紀」を見に行った。そのうちのセッションの一つ「1950年代以降のマレーシア、インドネシアにおけるフェミニズム運動-アーティストの視点から」では同展示出品作家でもあるマレーシア人の女性アーティストYee i-lann(イー・イラン)氏がインドネシアにおけるフェミニズム運動についてプレゼンテーションを行った。同氏は東南アジアの民間伝承による女性の幽霊を現代女性とつなげた映像インスタレーションを同展覧会にて展示している。
Yee i-lann氏は、インドネシアでは従来農業を通して女性の伝統的な役割があったこと、それがオランダ統治時代にプランテーションが導入されmonocropping(単一栽培)になったことで彼女たちの役割が変わってしまったことをまず説明し、その後で具体的な女性運動家の例を挙げ、1965年に起きたクーデター、9月30日事件の際に排除されたゲルワニの活動に話をつなげていった。これらの詳細を述べるのは省くが、Yee i-lann氏も話に触れていたインドネシアの代表的な女性運動家といえば、オランダ統治時代にプリプミ(原住民)の中で最も高い役職であったブパティの娘カルティニ(1878〜1904)である。
さいたま国際芸術祭 「Women's Lives 女たちは生きている」
さいたま国際芸術祭の市民プロジェクトとして
「Women's Lives 女たちは生きている」
に本間メイが作品展示参加しました。
キュレーターは小勝禮子氏(美術史・美術批評家)