口之津歴史民俗資料館で知った、からゆきさんたちの寄附により建立したという天女塔(弁天山理性院大師堂にある)を見に行くため、また地元の郷土史料家の方にもお話を伺えるということで、バスで片道二時間くらいかけて口之津から島原市中心市街地まで出かけた。島原駅から徒歩10分くらいのところに島原城があって、整然と区画された道や住居はいかにも城下町といった感じである。史料家の方は武家屋敷の名残を感じさせる立派な邸宅で親切に出迎えてくれ、奥様の手作りデザートを食べながら、貧困のために海外出稼ぎに行ったからゆきさんたちが日本の外貨獲得に貢献したこと、またその事象が起こるまでの島原の歴史について丁寧にお話してくださった。小学生か中学生くらいにしか見えない少女たちが並んでいる写真を見せてくれ、身売りされる少女だと分からないように女衒がきちんとした身なりをさせたのだ、と説明してくれた。
お二人ともとても若く見えたのだが、第二次世界大戦中かその前に生まれたらしく、史料家の方は引き揚げで島原に戻ってきたからゆきさんたちを子どもの頃見たことがあるらしい。最も戻ってこられなかったからゆきさんの方がはるかに多いということだが。その日の朝は口之津では小雨だったが、市街地ではどしゃ降りで、ご夫婦は私が町まで来られるか心配していたらしく、からゆきさんが守ってくれたんですねぇと言ってくれた。自宅に招いてくれただけでも有り難かったが、さらに弁天山理性院大師堂まで車で送ってもらった。
天女塔(正式名称:台山(うてなざん)天女塔)は、インドを約2年半かけ単身で仏跡巡礼を為した廣田言証師が、東南アジアを含む巡礼先で亡くなったからゆきさんたちの供養を行い、他のからゆきさんたちから寄進された浄財で建立にいたる。1900年に台山天女塔が完成、最上階には廣田言証師がラングーンの寺から贈られた、大理石でできている63センチの如来像を安置した。その後、古くなって破損が著しかった天女塔を、郷土史料家の方や口之津歴史民俗資料館の前館長さんたちの修繕活動の尽力により、2014年に修復が完了。実際の色がわかるカラー写真などはもちろん存在しないため、文字資料などからこの水色を再現したとのこと。
檀家は創建当初からいないらしく、管理人さんに頼んで天女塔の中を見せてもらった。最上階につながる螺旋階段は行き帰りが別々になっていて、登る際の最初の部分だけ石でできた狭い階段を少し下るような感じで、洞窟に入っていくようななんとも不思議な気分である。
最上階から見える景色。昔、天女塔がある辺りは島であったが、1792年に大地震が起こり、眉山が大崩壊した(島原大変)ため周りが埋まり、陸続きになった。
天女塔の周りにある石柱には寄進者の名前・地域・寄進額が彫られている。女性の名前が多いが、男性の名前もある。ミャンマーのラングーンやピーナン(ペナン/マレーシアのことか)、一ポウ(イポー/マレーシア)などと彫られていて地域は様々である。インドネシア方面はあまり無いようだったが、バタベヤ、ソロバヤと彫ってある石柱を一本ずつ見つけた。おそらくバタビア(現ジャカルタ)とスラバヤのことだろう。どちらも女性の名前のようだ。 管理人さんが写真をたくさん見せてくれた。供養する廣田言証師の周りにたくさんのからゆきさんがお祈りをしている様子が、スマトラ、イポー、ラングーン、ペナンなどで撮影されていた。こんなにたくさん写真があるとは驚きである。また、からゆきさんのポートレート写真も見つけた。写真館は華僑の店であったり様々だが、おそらくスマトラ島のメダンにあった日本人経営の写真館で撮られたものもあった。やはりメダンにも行ってみなくてはと思う。シンガポールのアーカイブセンターではからゆきさんと思われる日本人女性のポートレート写真をいくつか見つけたが、インドネシアでは写真などは見つけたことがない。主に新聞などから文字情報として資料が残っているのみである。私は少し遠回りした気がしたが、映像作品にはポートレートや女性たちの写真をあまり使う気にはなれなかった。ポートレートが何のために撮られたのか私にはわからないし、女性たちの写真を使う意義も見いだせないまま、何か別のイメージとなる「面影」を探している。調査の過程で女性たちの写真を見つけることは重要であるし、何にせよ、この貴重な資料を見せてくれた管理人さんには本当にお礼を述べたい。写真は全て複製されたもので、オリジナルはほとんど残っていないのだという。以前、訪れた研究者などに貸したまま返ってこないのだそうだ。なんだかとても残念な気持ちになった。
口之津歴史民俗資料館で知った、からゆきさんたちの寄附により建立したという天女塔(弁天山理性院大師堂にある)を見に行くため、また地元の郷土史料家の方にもお話を伺えるということで、バスで片道二時間くらいかけて口之津から島原市中心市街地まで出かけた。島原駅から徒歩10分くらいのところに島原城があって、整然と区画された道や住居はいかにも城下町といった感じである。史料家の方は武家屋敷の名残を感じさせる立派な邸宅で親切に出迎えてくれ、奥様の手作りデザートを食べながら、貧困のために海外出稼ぎに行ったからゆきさんたちが日本の外貨獲得に貢献したこと、またその事象が起こるまでの島原の歴史について丁寧にお話してくださった。小学生か中学生くらいにしか見えない少女たちが並んでいる写真を見せてくれ、身売りされる少女だと分からないように女衒がきちんとした身なりをさせたのだ、と説明してくれた。
お二人ともとても若く見えたのだが、第二次世界大戦中かその前に生まれたらしく、史料家の方は引き揚げで島原に戻ってきたからゆきさんたちを子どもの頃見たことがあるらしい。最も戻ってこられなかったからゆきさんの方がはるかに多いということだが。その日の朝は口之津では小雨だったが、市街地ではどしゃ降りで、ご夫婦は私が町まで来られるか心配していたらしく、からゆきさんが守ってくれたんですねぇと言ってくれた。自宅に招いてくれただけでも有り難かったが、さらに弁天山理性院大師堂まで車で送ってもらった。
天女塔(正式名称:台山(うてなざん)天女塔)は、インドを約2年半かけ単身で仏跡巡礼を為した廣田言証師が、東南アジアを含む巡礼先で亡くなったからゆきさんたちの供養を行い、他のからゆきさんたちから寄進された浄財で建立にいたる。1900年に台山天女塔が完成、最上階には廣田言証師がラングーンの寺から贈られた、大理石でできている63センチの如来像を安置した。その後、古くなって破損が著しかった天女塔を、郷土史料家の方や口之津歴史民俗資料館の前館長さんたちの修繕活動の尽力により、2014年に修復が完了。実際の色がわかるカラー写真などはもちろん存在しないため、文字資料などからこの水色を再現したとのこと。
檀家は創建当初からいないらしく、管理人さんに頼んで天女塔の中を見せてもらった。最上階につながる螺旋階段は行き帰りが別々になっていて、登る際の最初の部分だけ石でできた狭い階段を少し下るような感じで、洞窟に入っていくようななんとも不思議な気分である。
最上階から見える景色。昔、天女塔がある辺りは島であったが、1792年に大地震が起こり、眉山が大崩壊した(島原大変)ため周りが埋まり、陸続きになった。
天女塔の周りにある石柱には寄進者の名前・地域・寄進額が彫られている。女性の名前が多いが、男性の名前もある。ミャンマーのラングーンやピーナン(ペナン/マレーシアのことか)、一ポウ(イポー/マレーシア)などと彫られていて地域は様々である。インドネシア方面はあまり無いようだったが、バタベヤ、ソロバヤと彫ってある石柱を一本ずつ見つけた。おそらくバタビア(現ジャカルタ)とスラバヤのことだろう。どちらも女性の名前のようだ。
管理人さんが写真をたくさん見せてくれた。供養する廣田言証師の周りにたくさんのからゆきさんがお祈りをしている様子が、スマトラ、イポー、ラングーン、ペナンなどで撮影されていた。こんなにたくさん写真があるとは驚きである。また、からゆきさんのポートレート写真も見つけた。写真館は華僑の店であったり様々だが、おそらくスマトラ島のメダンにあった日本人経営の写真館で撮られたものもあった。やはりメダンにも行ってみなくてはと思う。シンガポールのアーカイブセンターではからゆきさんと思われる日本人女性のポートレート写真をいくつか見つけたが、インドネシアでは写真などは見つけたことがない。主に新聞などから文字情報として資料が残っているのみである。私は少し遠回りした気がしたが、映像作品にはポートレートや女性たちの写真をあまり使う気にはなれなかった。ポートレートが何のために撮られたのか私にはわからないし、女性たちの写真を使う意義も見いだせないまま、何か別のイメージとなる「面影」を探している。調査の過程で女性たちの写真を見つけることは重要であるし、何にせよ、この貴重な資料を見せてくれた管理人さんには本当にお礼を述べたい。写真は全て複製されたもので、オリジナルはほとんど残っていないのだという。以前、訪れた研究者などに貸したまま返ってこないのだそうだ。なんだかとても残念な気持ちになった。