私はこの旅行で初めて、女性の研究家、大久保美喜子さんと天草で話すことができた。性別によってどう変わるというわけでもないかもしれないが、彼女の研究だけでなく、その活動は尊敬すべきものがあったし、とても親近感を持つことができた。大久保さんは独自でからゆきさんについて調べながら、東南アジアからアフリカまで、からゆきさんに関する土地・日本人墓地を訪れ、文章を書き、絵本を作り、天草で別の仕事もしている。そしてインドの売春宿がある地域に現地のNGOと協力して、女性たちが産んだ子どもが通えるように幼稚園を2つ作り、毎年訪れているという。何が彼女をそこまで突き動かすのだろうか。大久保さんの本を読み、話してわかったことは、「からゆきさん=売春婦」という歴史が語られていく上で作られたレッテルや偏見への抵抗のようだ。そしてそのレッテルを地元民はタブー化することでしか自分たちを守ることができなかった。その背景を知らないまま、「からゆきさん」を悲しい過去の出来事として扱うだけでは私たちは本質を見出せないだろう。
確かに「からゆきさん」という呼び名は少女たちが渡航していた時代から使われていた言葉というよりは、研究が進むにつれて定義された言葉のようである。森崎和江が『からゆきさん』で示すように、地元では「からゆきどん」など親しみを持って呼ばれていたらしい。そして今では「からゆきさん」と呼ばれる当時の海外出稼ぎ者には、売春を強いられた女性だけではなく、ロシアに子守りなどの奉公に行った女性、東南アジアのゴム園などに働きにいった男性も含む。また当時、上海は「下駄ばきでひげをそりにいくところ」であり、地元の人たちにとっては長崎・熊本は物理的・心理的に日本の本州よりも外国が近いものであったようだ。その近さゆえ、出稼ぎしに行くのに海外であろうが国内であろうがそこまで違いはなかったのだろう。そしてまた、海外出稼ぎから帰国して良い暮らしができるという一種の憧れがあったらしい。
映画『続南の風』(1942年/監督:吉村公三郎)に出てくるお玉さん。シンガポールで女中奉公をした後、年上のフランス人と結婚し天草に戻ってきた。映画の描写がどこまで忠実かはわからないが、お玉さんは洋装をし、家具は全て西洋のもの、裕福に暮らしている。
明治時代と現代では性への価値観が文化的にも大きく異なるだろう。江戸時代に作られた大量の春画のことを考えれば、当時の日本人が性にオープンであったと考えることもできる。しかしこの文化を現代のポルノと同様に捉えることは避けるべきであろうし、この文化を悪用して人身売買などを行うのはもってのほかである。また、中野明はその著書「裸はいつから恥ずかしくなったか」で1854年にドイツ人画家ヴィルヘルム・ハイネが描いた『下田の公衆浴場』が混浴であったことから当時の日本人の裸体観が現代とは全く異なることを論じている。
天草ではそのほか、町の古老、96歳の郷土史家であるおじいさんに話を聞きに行った。第二次世界大戦中、お父さんがジャワに派遣されていたらしい。からゆきさんについて尋ねると、ご本人が書かれた本の中の1ページを見せてくれ、ワンピースを着た年配の女性が二人、日本軍たちと一緒に一枚の写真の中に写っていた。キャプションに「ジャワのカラユキさん(天草出身)」とある。後で東京に戻って本を確認したところ、明治から大正にかけてマレーやジャワへ海外出稼ぎに行った天草出身者がまだ多く残っており、日本軍に協力している人もいた。写真に写っている二人のおばあさんは久しぶりの天草弁に涙を流した、とあった。
私は今まで本や昔の新聞から情報を得ていたので、地元の人から話を聞くのは貴重な体験となった。少女たちが旅立っていったのはもう100年以上も前のことになり、彼女たちの渡航先でその記憶を辿るのは難しいが、ふるさとにはまだ記憶が残っている。大久保さん、またその他の天草で話した人たち、本当にありがとうございました。
私はこの旅行で初めて、女性の研究家、大久保美喜子さんと天草で話すことができた。性別によってどう変わるというわけでもないかもしれないが、彼女の研究だけでなく、その活動は尊敬すべきものがあったし、とても親近感を持つことができた。大久保さんは独自でからゆきさんについて調べながら、東南アジアからアフリカまで、からゆきさんに関する土地・日本人墓地を訪れ、文章を書き、絵本を作り、天草で別の仕事もしている。そしてインドの売春宿がある地域に現地のNGOと協力して、女性たちが産んだ子どもが通えるように幼稚園を2つ作り、毎年訪れているという。何が彼女をそこまで突き動かすのだろうか。大久保さんの本を読み、話してわかったことは、「からゆきさん=売春婦」という歴史が語られていく上で作られたレッテルや偏見への抵抗のようだ。そしてそのレッテルを地元民はタブー化することでしか自分たちを守ることができなかった。その背景を知らないまま、「からゆきさん」を悲しい過去の出来事として扱うだけでは私たちは本質を見出せないだろう。
確かに「からゆきさん」という呼び名は少女たちが渡航していた時代から使われていた言葉というよりは、研究が進むにつれて定義された言葉のようである。森崎和江が『からゆきさん』で示すように、地元では「からゆきどん」など親しみを持って呼ばれていたらしい。そして今では「からゆきさん」と呼ばれる当時の海外出稼ぎ者には、売春を強いられた女性だけではなく、ロシアに子守りなどの奉公に行った女性、東南アジアのゴム園などに働きにいった男性も含む。また当時、上海は「下駄ばきでひげをそりにいくところ」であり、地元の人たちにとっては長崎・熊本は物理的・心理的に日本の本州よりも外国が近いものであったようだ。その近さゆえ、出稼ぎしに行くのに海外であろうが国内であろうがそこまで違いはなかったのだろう。そしてまた、海外出稼ぎから帰国して良い暮らしができるという一種の憧れがあったらしい。
映画『続南の風』(1942年/監督:吉村公三郎)に出てくるお玉さん。シンガポールで女中奉公をした後、年上のフランス人と結婚し天草に戻ってきた。映画の描写がどこまで忠実かはわからないが、お玉さんは洋装をし、家具は全て西洋のもの、裕福に暮らしている。
明治時代と現代では性への価値観が文化的にも大きく異なるだろう。江戸時代に作られた大量の春画のことを考えれば、当時の日本人が性にオープンであったと考えることもできる。しかしこの文化を現代のポルノと同様に捉えることは避けるべきであろうし、この文化を悪用して人身売買などを行うのはもってのほかである。また、中野明はその著書「裸はいつから恥ずかしくなったか」で1854年にドイツ人画家ヴィルヘルム・ハイネが描いた『下田の公衆浴場』が混浴であったことから当時の日本人の裸体観が現代とは全く異なることを論じている。
天草ではそのほか、町の古老、96歳の郷土史家であるおじいさんに話を聞きに行った。第二次世界大戦中、お父さんがジャワに派遣されていたらしい。からゆきさんについて尋ねると、ご本人が書かれた本の中の1ページを見せてくれ、ワンピースを着た年配の女性が二人、日本軍たちと一緒に一枚の写真の中に写っていた。キャプションに「ジャワのカラユキさん(天草出身)」とある。後で東京に戻って本を確認したところ、明治から大正にかけてマレーやジャワへ海外出稼ぎに行った天草出身者がまだ多く残っており、日本軍に協力している人もいた。写真に写っている二人のおばあさんは久しぶりの天草弁に涙を流した、とあった。
私は今まで本や昔の新聞から情報を得ていたので、地元の人から話を聞くのは貴重な体験となった。少女たちが旅立っていったのはもう100年以上も前のことになり、彼女たちの渡航先でその記憶を辿るのは難しいが、ふるさとにはまだ記憶が残っている。大久保さん、またその他の天草で話した人たち、本当にありがとうございました。