第二次世界大戦前に海外渡航した日本人についてのリサーチ④:島原⑴

からゆきさんについて調べていて、島原市の口之津という町にずっと行きたいと思っていた。1567年に日本で初めての南蛮船が口之津に来航し、南蛮貿易港として栄え、第二次世界大戦後も船員を多く出した。そして第二次世界大戦前にはたくさんの少女が口之津港近くの風呂屋などに囲われ、ボートに乗ってそこから石炭船に乗り込んだ。口之津町自体は貿易港として栄えていたので割と裕福であったようだが、それ以外の島原地域や天草からやってきた出稼ぎ者が多く渡航したらしい。博多から長崎県の諫早まで特急に乗り、そのあとバスに2時間以上揺られて口之津に到着した。バスの中からはどこにでもあるような町の景色、南国風の木、温泉街、町と海が隣り合わせになった風景などを見ていた。

とても綺麗な夕日と波の音に迎えられて、がらがらと小さいスーツケースを引っ張ってホテルまで向かう。途中、キリシタン墓碑の看板を見つけ、キリスト教信仰とキリシタン弾圧の歴史があったのだということを思い出した。東京に住んでいるとわからないことの方が多いのだが、この地域は本当に昔から外国が身近にあったんだなぁと思う。しらはまビーチホテルに到着した頃には夜の8時になろうとしていて、ホテルのレストランはもう終わってしまったという。近くにレストランは無さそうだし、明日の朝食まで我慢するかと思っていたらホテルの女将さんらしき人が車でちょっと離れたところのレストランまで送迎してくれた。とても気さくな良い人で、自分の時間が空いていたら車で観光地に連れて行ってくれると申し出てくれたが、次の日は口之津歴史民俗資料館に行く予定だったし、海沿いを歩いて撮影などもしたかったので遠慮しておいた。ホテルの真裏はビーチになっていて、綺麗な白浜と海が広がっている。何度か訪れたが、釣りをしている人と犬の散歩をしている人がたまに一人二人いるくらいで、ほとんど人がいない。この地域は潮の流れが強いらしく、一人で海を見ている時や、ホテルの露天風呂に浸かっている時に潮の流れの音が聞こえると、呑み込まれてしまうのではないかと思う。

私が口之津を訪れたいと思っていたのは、口之津歴史民俗資料館にからゆきさんに関するセクションがあるからである。日本でからゆきさんに関する展示がある資料館は他に無いだろう。資料館は主にポルトガル船入港や、明治時代に貿易港として栄えた歴史などに焦点を当てている。石炭積みの仕事は男性だけでなく女性も従事していたというパネルを門司港のどこかでも見たが、ボートから石炭船に石炭を積む様子が絵と人形で再現されており、たくさんの女性も描かれていたのに加え、女性たちの写真も展示されていた。資料館敷地内には長崎県文化財の旧長崎税関の建物もある。

からゆきさんのセクションでは、彼女たちの写真や雇用契約に使用された証文、島原出身の作家・宮崎康平に関してなどの他、ある一人のからゆきさんが日本に戻ってくる時に持ってきた洋服や時計、指輪など貴重な資料を見ることができる。興味深かったのは普通のやかんの中に指輪など大切なものをこっそりと隠して持って帰ってきたことだ。税関で没収されるかもしれないからだろう。また、展示を見て初めて知ったのだが、からゆきさんたちが多額の寄附をして建立された天女塔が弁天山理性院大師堂というところにあるという。これについては別ページで記したい。資料館の館長さんと前館長さんにお話を伺い、また展示品のアルバム写真を実際に手にとって見させてもらった。とても古く豪華な装丁のアルバムに、からゆきさんと思われるたくさんの女性のポートレート(洋装も多い)、ヨーロッパ系の男女のポートレートもあった。いったいどうしてこんなにたくさんのポートレートがあるのか、そのことは知る由もない。からゆきさんに関する話題は今でも話しにくいか、と尋ねたところ、前館長さんによると昔はそうでもなかっただろうが今は当時と比べるとそんなに話さないのではないか、との答えが興味深かった。からゆきさんに関する言説が時代によって、また地元とそれ以外の地域で異なるということだろう。

前館長さんに口之津灯台や瀬詰崎灯台、あこう群落(亜熱帯植物、東南アジア方面から種子が漂着したのか)などいくつかの見所に連れて行ってもらった。

私が瀬詰崎に行った時はたまたまそうでもなかったが、潮の流れがかなり激しい場所らしい。灯台まで歩いて行けるようになっていたが、ちょっと怖かったのでやめておいた。潮の流れが強い時は、岸辺と灯台をつなぐ足場を波が覆いかかることがあるらしい。遠くの方には水中で火山が噴火したことによってできた岩戸山と女島もある。女島はおよそ200万年前にできたという。岩戸山には観音様を祀っていた洞窟「穴観音」があり、カトリック宣教師らが1582年にこの洞窟に隠れていた仏教徒を襲撃した。前館長さんは相当な歴史家で、道中いろいろなエピソードを教えてくれた。からゆきさんの多くは識字率が低かったようで、女衒たちもそういった字が書けない読めない娘たちを狙って声をかけていたこと、口之津町は現在でも平均して裕福らしく、田んぼは他の町の人が借りており毎日通って農作業をしていること、などなど。資料館の前館長さん、現館長さんには説明を聞きながら資料も間近で見せてもらい、また他にも話を聞ける人を紹介してもらえて、本当にお世話になり大変感謝している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あこうの木々