中部ジャワ、ブローラにプラムディヤの弟を訪ねて

インドネシアの中部ジャワに位置する町、ブローラを訪れた。ブローラは作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールが生まれた場所であり、プラムディヤが弟のクサラ・スバギオ・トゥール(Koesalah Soebagyo Toer)、スシロ・トゥール(Soesilo Toer)と共に自宅を図書館として開放したパタバ図書館(プラムディヤ・アナンタ・トゥール すべての民族の子)〔Perpustakaan Pataba (Pramoedya Ananta Toer Anak Semua Bangsa) 〕がある。プラムディヤとクサラは亡くなっているので今はスシロ氏とその家族が住み、管理している。


スシロ・トゥール氏

スシロ氏は現在81歳。今年は手術を受けたので前ほどアクティブに動けないらしいが、スシロおじいちゃんと呼びたくなるような気さくに何でもオープンに話す愛嬌のある人で、プラムディヤは81歳で亡くなり、自分もあと数ヶ月で同じ年齢に達するのでもっと長生きしたい、とにこにこしながら話していた。スシロ氏は物書き・ロシア語翻訳家であり、執筆をしながら出版社パタバプレス(PATABA press)の運営もしている。こう言うと少し語弊があるかもしれないが、プラムディヤの家族は大変なインテリである。オランダ領島インド政府と関わりがあり、オランダ語も堪能であった兄弟たちの父親は、オランダ領島インド政府の援助を受け、学校を建設し校長となる。日本軍政時代は「トナリグミ」(隣組/現在のインドネシアでもRTとして未だ存在する)の班長となった。日本軍政時代当初はオランダ植民地時代よりも状況が良くなることを期待していたが結果的には期待を裏切られることとなる。インドネシア独立後はオランダや日本と関わりがあったことから近隣の住民たちから嫌われる存在となってしまったようだ。

学校は現在SMP 5 BLORAとなり、プラムディヤの父親の肖像画が飾られている。SMPはインドネシア語で中学校。

スシロ氏の兄であるクサラは5年間モスクワの大学で学び、インドネシアでは大学で教鞭をとっていたほか、英語、オランダ語、ロシア語、ジャワ語の翻訳家として活躍し、トルストイの本や、吉川英治の『宮本武蔵』などを翻訳した。

スシロ氏の話に戻ると、経済学の修士課程と博士課程を修了するために11年間ソ連に住んでいた。ゴーリキーなどロシア語の本の翻訳をしている。また翻訳だけでなく小説、プラムディヤのバイオグラフィー本、ブローラに存在するサミンの民(民族運動として蘭領島インド政府への抵抗から始まり、今でも独自の信念を持っている)の人々に関する本も執筆している。若い頃は大学で教鞭もとっており、現在も講演などがあれば話をしに行くようだが、最近は個人で夜ゴミを集めて売る仕事を生業としているそうだ。雨の日はゴミ集めをする他の人が少ないのでたくさん集められるらしい。ソ連で博士まで修了し、現在は物書きの傍らゴミ集めを生業とするスシロ氏の生き方はやはり興味深いらしく、2015年にスマランの大学で学ぶ大学生二人がドキュメンタリーを製作していた。


パタバ図書館で販売されているパタバプレス出版の本。

また、プラムディヤは第二次世界大戦後の混乱期、オランダ政権によって投獄されていた間に「ゲリラの家族」を書き、その後のスハルト政権下で4年間投獄され、その後10年間流刑されていたブル島では大作「ブル島4部作」を創作した。前述した小説は日本語翻訳もされている。生き抜くための芸術、「ブル島4部作」は他の流刑犯を元気付けるためにも口述で創作したというから、プラムディヤにとって書くことは生き抜くことであり、どんな状況でも創作することはでき、また人間に必要なものなのだろう。兄弟たちも同じく政治犯として投獄されていた。

私がソシロ氏に会いに行ったのは、プラムディヤが『人間の大地』と『すべての民族の子』の中でなぜ日本人女性マイコについて書いたのか、その接点を知りたかったからだ。プラムディヤが当時インドネシアに渡航した日本人女性について知るきっかけは何だったのか、ソシロ氏はその訳は知らなかったが、第二次世界大戦が始まる前からブローラにもミカドと呼ばれるトコ・ジュパン(日本人の店)が一軒だけあったことを話してくれた。トコ・ジュパンはインドネシア全土にあり、特にバタビアやバンドン、スラバヤ、メダンなどの大きい町では何軒もあったようだが、ブローラはアクセスも良いとは言えない、かなりの田舎町であり、日本人の店が色々な町にあったということに驚かされる。ブローラにあったトコ・ミカドは水道管関連のお店だったらしく、修理のため村の家々を訪れることでスパイとしての活動を日本人たちがしていたのではないかと言っていた。

日本人スパイ説は主に大企業がインドネシアに進出してきた後の1930年代から言われていることのようだ。マカッサルのハサヌディン大学で教鞭を執るメタ・スカル・プジ・アストゥティ氏も、同氏の論文の中で「からゆきさん」と呼ばれる女性たちがインドネシアにやって来た後、彼女たちが必要とした薬などの日用品を売るための行商人と小売店経営者が日本から流入した1890年〜1910年にオランダ領東インド政府はすでに日本人商業人たちがスパイではないかと疑っていたこと、結果的には彼らはスパイでは無かったが、オランダ領東インド政府がまた日本人スパイ説を疑う資料が30年代に存在することを指摘している。インドネシアで最近注目されている小説家エカ・クルニアワン氏(Eka Kurniawan)による小説『美は傷―混血の娼婦デウィ・アユ一族の悲劇(Cantik Itu Luka)』でも日本人スパイ説に関する記述があるので、歴史に詳しい人は知っていることらしい。

オランダ占領期に生まれ、日本占領期やインドネシア独立を経験したソシロ氏が元気なうちにブローラを訪れ、またお話を伺いたいと思う。


学生たちに囲まれるソシロ氏