第二次世界大戦前に海外渡航した日本人についてのリサーチ⑧:長崎市内

長崎にはかつて女人禁制の出島に出入りを許されていた遊女たちがおり、彼女たちは丸山遊郭から通っていた。また、悟真寺の裏に稲佐遊郭という別の遊郭も存在した。この稲佐遊郭は元々、稲佐郷にあり露西亜マタロス休息所と呼ばれていた。露西亜マタロス休息所はその名の通りロシア人が通うための遊郭である。1860年に英仏の艦隊に敗れ、長い航海をしてきたロシア軍艦ポスサヂニクが長崎港に入港し、マタロス(水夫)たちはしばらく長崎に滞在することになった。彼らは当初、丸山遊郭に登楼する予定であったが、梅毒を恐れ、ロシア人軍医による検梅を要求した。日本にはまだ検梅の習慣がなく、遊郭としてもそれなりに権威を持っていた丸山遊郭はこれを拒否し、稲佐郷にその代わりとなるものを作るべく長崎や近隣の村からまずしい娘を集め、検梅も受けさせた。稲佐遊郭となってからはロシア人以外の客もいたようだ。このあたりはやはり森崎和江の『からゆきさん』に詳しいが、そういった流れからも稲佐とロシア海軍の関係は長く、日本からロシアに渡った日本人が開いた売春宿もロシアにあったらしい。現在の稲佐町には遊郭の面影はなく、端正な住宅地の中に悟真寺があり、その隣の稲佐悟真寺国際墓地には日本人・中国人・オランダ人・ロシア人が眠っている。それぞれの墓地は区画されていて、私はロシア人墓地に入ってみた。少し後の年代のものもあったが、からゆきさんが渡航していたであろう時期と重なる年が記載されている墓碑が多数あった。

この左側にある塀の向こうにロシア人墓地がある。

墓地の上の方から見た風景。

私はからゆきさんたちに対して、何か特別な思いがある。もちろん私は家族にも守られ、税金も支払うことにより国保などもあるので状況は全く違うが、日本からインドネシアに行ったりしているからだろう。そして海を渡った多くの少女たちについて想像することは、私たちが現代を生きる上で重要なのではないか、現代のジェンダー観の考察につながるのではないかとうっすらと思っている。しかし国籍や性別という大きなくくりの中に、からゆきさんたちと同じ故郷を持ち、何らかの形で記憶を共有していかなければならない人たちもいて、複雑なレイヤーから成り立っていることを痛感させられる。しかしそれでも、現代、もしくは自分自身の価値観だけで考えるのではなく、他の視点も持つ必然性を意識しながら、私はからゆきさんたちを巡る旅を少しずつだがこれからも続けるだろう。