第二次世界大戦前に海外渡航した日本人についてのリサーチ③:博多

博多では主に明治時代の新聞やアーカイブ資料を見るのが目的であった。福岡県立図書館に数日通って「門司新報」を読んだり、九州大学附属の医学図書館で『日本皮膚病黴毒圖譜』を見せてもらった。日数が限られていたので「門司新報」はあまり読み進められなかったが、主に1896年と1906・1907年あたりの記事を読んでいた。1900年より前のものとなると、旧字体の漢字に加え、文章もさすがに読みにくい。1896年の正月三が日は新年の挨拶として多くの商店などが広告を出しており、いくつかの券番も広告を出していたのだが、そこに娼妓や藝妓の名前も連なっていた。当時、券番は身近なものであったのだろうと思う。しかし1907年の正月三が日には娼妓や藝妓の名前が掲載されている広告は見当たらなかった。海外出稼ぎ関係は、布哇(ハワイ)への日本人移民に関する記事がいくつかあった。また、1906年12月8日の「門司新報」には、ジャワ島への輸出に関する記事を見つけた。南清地方から南洋諸島一帯において日本雑貨の需要が増加しているが、不正商売のため信用が失墜したのでバタビヤには商業会議所のようなものが設立され品評を行っている。例えば洋傘は安価なので売れ行きが良く、バタビヤの某外商から100ダースの注文を受けたが、本邦某洋傘店は1ダースに各1本不良品を混ぜたために同地方の信用を失墜した。売薬も有望な輸出品だが洋傘と同じく、一包み7日分と称して実際には5日分しか入っていないものを輸出し、信用を失墜したことは惜しいことだ、といったような内容である。

梅毒に関する資料を見たかった理由は、梅毒が国内外の売春を強いられていた女性たちが常に向き合わなければならない病気であったこと、昔の新聞を見ていると梅毒治癒用の薬の広告を頻繁に見ること、検梅というシステムにより女性たちの人権が脅かされた歴史があること、などである。『日本皮膚病黴毒圖譜』は、ムラージュ(蝋細工)で皮膚病を再現する模型を日本へ導入した医学者の土肥慶蔵(1866〜1931年)が製作した皮膚病図譜で、原本は製本がされていないのだが、30名の患者の病状を絵師が精密に表現した彩色石版図版の他、その病名・症状・原因・同事例の写真などが掲載されている説明本から成る。石版画を制作した絵師は伊藤有とあったが、おそらく有名な絵師ではないだろう。医学目的で制作されたものとはいえ全く色褪せていない図版は素晴らしく、西洋絵画の影響が垣間見られる手法と、和装の患者とのコントラストがとても興味深い。医学図書館で原画を見せてもらえて本当に有り難かった。

 

 

 

 

 

 

 

写真は国立国会図書館のデジタルアーカイブから。