「ダンケ」と言う町アンボン、そしてブル島へ

インドネシア、マルク諸島に位置するブル島に行ってきた。ブル島はかつての流刑地であり、かのプラムディヤもスハルト政権下の60〜70年代にブル島に流刑されていた。私はブル島にすごく惹かれていて、資料などは無いかもしれないがプラムディヤが創作を行なった土地に、絶対に行ってみたいと思っていた。マルク諸島は文化圏がジャワ島とはかなり違うようで、私が主に滞在していたジャカルタやバンドンからはなかなか遠い。インドネシア人の友人はめったに行かないし、もともと親族がマルク諸島出身だがジャワ島で育った何人かの友人たちも、行ったことがないと言っていた。主食も本来は米ではなく、木の皮から採って粉末状にしたものを固めたサグというものを食べる。とはいえ、スハルト政権が終わった後の79年から「トランスイミグラシ」という、政府によるジャワ人移住政策に伴って米の農作を推奨され、現在では米も主食の一つとなっている。

私はマカッサルで研究者の人に会ってからマルク諸島に向かったので、マカッサルからアンボンというその地域ではわりと大きな町にまず向かった。アンボンを起点として、フェリーや小型飛行機で他の島々まで行けるようだ。アンボンもなかなか興味深い町である。開放感のある土地の雰囲気と、どこか長崎に似た地形、そしてポルトガル人とオランダ人が占領のためにアンボンにやってきた歴史的背景なども長崎に少し似ており、私はすっかりアンボンが気に入ってしまった。


アンポンの街並み

たまたまバンドンに暮らしているマルク出身の友人が帰省していたので、案内をしてもらいながら、長崎に出島が無かったらアンボンみたいになっていたかもしれないし、アンボンに出島みたいなものがあれば全然違った歴史になっていたかもしれないね、と話したりしていた。アンボンはオランダ占領の名残がわりと残っており、土地の人たちは「ありがとう」をインドネシア語の「テリマカシ(Terima kasih)」ではなく「ダンケ(Danke)」と言う。(後から友人に聞いた話ではスラウェシ島のマナドなどもそう言うらしい)また、キリスト教徒もかなり多い。私が行った時は特に何事も無かったが、以前かなり深刻だったイスラム教とキリスト教の宗教抗争への不安はいまでも消えていないようだ。

(元々の宗教抗争の始まりは宗教が理由では無かった)町はイスラム教とキリスト教の区域で分かれていて、ちょうどクリスマスだったのでキリスト教の区域はクリスマスツリーなどが飾ってあった。

アンボンからブル島にはフェリーで行くことにし、明るいうちにフェリーからブル島の風景を撮影したかったのだが、フェリーの出発が4時間遅れ、ブル島のナムレア地域に着いた時にはもう真っ暗、ホテルではゴキブリがわんさか出たため先行き不安な旅となったのである…。しかし私は船酔いを全くしないためフェリーは案外快適であった。


ナムレア

ゴキブリは連れが全て退治したので、次の日からは気持ちを改め、島の散策を始めた。ビーチはとても美しかったが、プラムディヤに関わりのある場所を探すことに忙しかったため結局ビーチでゆっくりすることはできなかった。

たまたまネットで見つけた記事に、プラムディヤがかつて創作を行なった家というのが紹介されていたので、少ない情報を頼りに、その家を探しに行くことにした。ブル島は政治犯が暮らしていた時に決めたユニットと呼ばれる区画が今でも使用されている。ネットの記事に書いてあったのはユニットのナンバーと警察署の後ろにあるということだけだった。ユニットのナンバーを頼りに、ひたすらバイクで長い道を走った。


写真にあるのはユニット4

住宅地まではひたすら長い道が続く。政治犯たちが当初、開拓したと思われる。

そして、少し違う道に入ったりしたものの、ユニットのナンバーと警察署の後ろという情報だけでなんと見つけたのである。


プラムディヤがかつて創作した家


私の映像作品にも使用しているスチル

現在、この家に住んでいる家族はプラムディヤがここで過ごしていたことは知らないようだ。家はある会社の所有物となっており、会社が引っ越したため、家族は管理を兼ねて代わりに住んでいるらしい。突然の来訪にも関わらず、家の人たちは快く対応してくれた。最近、ブル島の話題といえば3つの金鉱山と違法採掘だ。家の人たちは金鉱山に関して色々教えてくれ、私たちは見に行くことを勧められた。行くつもりは無かったのだが、結局次の日に行くことになった。金鉱山についてはまた別記事で記そうと思う。